こんにちは、涼枝です。
いつも土曜日は死んでます。
この日記……更新頻度が低いですが、
気が向いたら更新するスタイルって個人的には気が楽です。基本的に、大した人数がみてないのもいい。
最近ではtwitterで適当な発言をするのすら、難しくなってきています。
色々な人に、私の絵とか見て欲しいな、とか。デレステの話ができるといいな、と思い、
鍵無しのアカウント @sccsuzueda を作ってみたのですが、ちょっとまとめサイトに反応したりすると、
作って間もないアカウントにも関わらず、結構リツイートが飛ぶ時があります。(誰かに攻撃されているわけではないですが)
正直、怖いですね。やっぱ。
昔と違って、twitterの利用者が増えていますし、サーチで飛んできたりする人も多いです。
不特定多数に常に見られているという、緊張感があります。
以前、ネットで悪意をもった攻撃をされたり、マジキチな知人からレッテル貼りや迷惑行為をされたこともあり、
臆病になっている所為もあるかと思いますが、なかなか外向きに発信できない苦労を感じています。
どこから、どんな風に非難されるか分からない。
色んな人が増えすぎて、それらの共通項も減り、なおかつ攻撃的になっている。
面倒に関わらないためには、どうしても「当たり障りのない」発言がメインになっていく。
非常にめんどくさいです。正直。
最早、現実の職場とかの方が話しやすいことが多いかもしれない。
回顧するといってもアレですが、昔はそうでもなかった気がするんです。
twitterなんて、ただの「つぶやき」だし、深く考えずにできるのがメリット。
発言が人種差別的であるとかいうならまだしも、「リア充氏ね」くらいの発言で、
一斉に色々なところに取り上げられて、リプが舞うそんな世界ではなかった。
いつの間にかtwitterは「公式な発言」をする場として認知されるようになり、
「いや、ちょっと思い直したわ」的な修正も利かない場に変わりつつある。
肥大化して、自分が「責任ある発信者」とならなければならない、リアルに密接してきたな、と感じます。
非常に窮屈です。ほんと。
世界には数多、国家が存在します。それは、「コミュニティ」が肥大化しすぎると人間がまとめきられないことの証左でしょう。
イデオロギーだの、人種だの一定の共通項がある仲間でないと、「コミュニティ」はやっていけないのかもしれません。
とすると、肥大化した「コミュニティ」となったtwitterは、
もっとミクロな「コミュニティ」を求める人間にとっては、かなり生きにくい場になってきていると言えるでしょう。
つまり、もっと共通項を限定したミクロな「コミュニティ」がやはり必要になってくる。
twitterにはフォローという限定によるミクロな「コミュニティ」に対応していた。
mixiはマイミクとか「コミュニティ」などの手法でミクロな「コミュニティ」を形成していた。
しかし、どちらのSNSもやはり、商業化が進んでくにしたがって、肥大化していくにしたがって、
「足跡」による苦痛や、「拡散」による苦痛が露呈してきた。
では、新しいコミュニティってなんだろう。
最早、建前はいらない世界じゃないだろうか。分け隔てなく人と接するのは苦痛である、と。
人は認めるべきではないだろうか。
そして、それを前提としたコミュニティが必要なのだ。
つまり、一定の共通項を「本体」が提供し、そこに隔絶した空間が設けられる世界が必要なのではないか。
ネットゲームでいうサーバーのように区切らえた世界の中、人は住みやすいサーバー(空間)を探していく。
オタクツイートしかしない奴と、合コンの話しかしない奴が、
顔を突き合せないのに、同じ声が聞こえる空間にいても苦痛なだけなのだ。
だったら、それだけの空間をつくる。そこに自分は受け入れられないかもしれない。
すると、また新たな「空間」をつくってもらって、同類を呼ぶか、違う「空間」に移住する。
それが失敗し続けるのであれば、最早自分が社会不適合者であることを認めざるをえないであろう。
そういうシステムがあればいいのにな、と。引きこもり気質の私は思ってしまうのです。
かつては、2chの専門板とかそうだったのかもしれませんが、ちょっとシステムが古典的すぎるし、レスポンスがイマイチという欠点がある。
そこをうまく、作り変えて、リアルタイムでレスポンスがある世界に変えれれば、
少なくても私には満足できるSNSができる気がするのです。(運用していくうちにまたダメになるのでしょうが)
最近のネット社会に疲れてきている「おじさん」のつぶやきでした。