【日記】 けものフレンズをみて

みなさん、お久しぶりです。
涼枝です。先週は北海道にいったり、その前はシンデレラステージに行ってみたり、
意外と精力的に遊んでます。勉強もしなきゃ、ね。

期末は忙しく、心が荒んでいたので、最近のハートウォーミング作品として著名な
「けものフレンズ」というものを見てみました。

結論から言えば、流行るモノには流行る理由がある。そして、それは実際に見ないとわからない。
そのことが、今回よくわかりました。
 
荒んだ現代人。人間関係に苦しむ毎日。
そんな中、心優しい「いろんなフレンズ」をみつけて、「わーい!たのしー!」ってIQ下げて楽しむ。
 
そういう需要があって、好かれているんだろうなー、と見もせずに漠然と思っていたのですが、
それは間違いだった、と見て気付かされました。

確かにそういう要素もあるんでしょうが、これは本質でない
最新話である11話ショックとかあって、今、色々話題になっていますが……
私がこのアニメを見て感じたのは、全く逆の感想。

人間の醜さ

を感じたのでした。

「けものフレンズ」はサービスが終了したゲーム。ネクソンの社長も行ってましたが、「終わったタイトル」です。
そもそもなんでソレがアニメ化したんだろう……というのが、最初の疑問だったのです。

その疑問に対して、実際に11話まで見て、自分のなかで一定の結論を得ることができました。
これは「終わったタイトル」じゃなきゃできなかったアニメなんだ、という結論です。
 
色々なところで言及されていますが、かわいいフレンズの背景には「かつて人類がいて、滅びた」ディストピア的な世界が描かれています。
壊れたジャパリバスも、ロープウェイも、使われなくなったアトラクションも全て全て。
これは「人の心が離れていった」ゲームの中の世界。
つまり、サービスが終了してしまった世界そのものなのではないでしょうか。

じゃあ、その世界を壊すセルリアンは何なんだろう。
その答えは12話以降で明らかになるのでしょうが、
私は、それは人の「忘却」だと予測します。

セルリアンに食べられると「消滅するのでもなく、死ぬのでもなく」、
記憶がなくなり、リセットされるとの言葉がありました。

これは、「人」が嘗て楽しんだコンテンツを忘却し、捨て去り消していくことを意味しているんじゃないかなと。

つまり、人間はコンテンツ多様化の社会の中、非常に多くのコンテンツを「消費」していきました。

世の中に知られることなく終わったタイトルもあるでしょう。(アニメ化されなかったら「けものフレンズ」もそうだったでしょう)
かつては色んな人が楽しんでくれたのに、他に楽しいゲームができて、やらなくなってしまったゲーム。
全巻買ったけど、もう読み返すことも、見直すこともない、アニメや漫画。

もし、コンテンツの中に人格があって、想いがあったとすれば……
こうやって消費されて、人の心が離れていくということは、

それそれは悲しいことでしょう。苦しくて、胸がつらいことでしょう。

もしかしたら、そういうことを「けものフレンズ」は意味しているんじゃないでしょうか。
人の心はとっても移り気で、コンテンツを消費していく。

でも、コンテンツの中の子に人格があったら? その子の気持ち、考えてる?
いつも来てくれなくなった人が来てくれなくなる悲しさ。それわかってる?

そういう意味合いをもったアニメなんじゃないかと。そして、それは色々な同人とかで言われてきたけれども。
こんなに対象的な作風で、公式なアニメであったのは、珍しかったんじゃないだろうか。

艦娘とわたしの10の約束 by さき@春コミ-ア68b on pixiv

 
コンテンツの中にもし心があるならば、人間はなんて残酷なことをしているんだろう。
 
上の動画やイラストを思い出し、なんというか、悲しさを覚える涼枝でした。

また、昔のエロゲ、やろうかな。

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